池田会長、創価運動の基調五項を講演

第39回本部総会/昭和51年10月24日/札幌文化会館

「創価学会の理念と伝統を継承し永遠に仏法中道を進もう」聖教新聞社刊

 

五項目の基本理念

一、創価学会は、永遠に民衆の側に立つ

一、創価学会の実践は、人間革命の運動である

一、創価学会は、仏法中道の大道を歩む

一、創価学会の社会的意義は、平和を守り、人間文化の興隆にある

一、創価学会は、人間の精神の自由、なかんずく信教の自由を死守する

 

 創価学会の根本路線―信行学

 

 「教学の年」への門出となる本部総会を初代会長・牧口常三郎先生、第二代会長・恩師戸田城聖先生が、ともに向学の志に燃えて青年時代を過ごされたゆかりの地・北海道で開催しえましたことに、不思議の感を禁じえません。

 私は何十回となく、今まで北海道にまいりましたが、やはり初めてこの地を踏んだときの印象には強いものがあります。

 それは、昭和29年の夏、戸田先生と一緒に厚田村を訪れたときでした。

 先生は、出獄後、初めて故郷に帰られるとあって、まことに感慨深いものがあるようでした。私は26歳、先生が54歳のときです。

 太陽が青空に照り輝く、8月の暑い日でした。今は道路も舗装されていて、この札幌から車で1時間ぐらいで行けますが、当時は、ほこりの立つ山道を疾駆し、石狩川も渡し船のため、3時間はかかりました。

 途中、とうもろこしをごちそうになったりしながら、少年時代の思い出をいろいろと語ってくださいました。

 ――当時、小学校の授業が終わると、担任の先生と一緒に、海岸沿いに海を見ながら歩いていって、ルーランの奇勝といわれる面白い形をした岩が海中に突き出ているところに行っては腰を下ろし、そこで先生に本を読んでもらったり、ゆうゆうたる日本海の水平線のかなたを眺めながら「あの海の向こうには、アジアの大陸があるんだよ。そこにもたくさんの民衆がいるんだ」と聞かされては、少年の大いなる夢をふくらませたりしていた。このような話をされながら、戸田先生ご自身も、大変にうれしそうにしておられたことを、なつかしく思い起こすのであります。

 厚田村に着いて、宿舎に荷物を置くと、戸田先生は私に「厚田村の様子を見ていらっしゃい」と言われるので、私は、一人で海岸へ行ったり、厚田川のほとりを歩いたり、散策をしました。その第一印象は、貧しい小さな海辺の村といった感じでした。貧しく小さいといえば、当時の創価学会もほんとに小さい存在でしかありませんでした。社会においても「なんの学会ですか」と、その名を聞かれるぐらいのものでした。

 私は、厚田港の岬に立って、恩師の少年時代に思いをはせ、また、創価学会の未来を描きながら“今に見ていよ、十年後を見よ、二十年後を見よ”と決意いたしました。また“庶民の団結こそが、世界の平和を生み出していくのだ”と、深く、強く自らにいいきかせ、ひとり大声で、日本海に向かって叫んだことを覚えております。

 感無量の想いや誓いを、いろいろと交錯させながら、東京に帰ってから、恩師の故郷を歌に詠んだのが「厚田村」の詩であります。「権威の風に 丈夫は 征けと一言 父子の譜」とは、そのときの私自身の決意でもありました。

 時移り星流れ、あれから22年、私は、あのときの戸田先生の年齢に少しずつ近づいている自分自身を発見し、やや驚くとともに、あの青春の決意のままに、皆さん方とともどもに、ただ懸命に広宣流布の道を疾駆できえたことを喜んでおります。私にはなんの悔いもありません。

 昭和54年は、創価学会にとって、また一つの大きな節を迎える年でありますが、そのときは私は51歳。戸田先生が会長に就任された年齢であります。いよいよこれからであると私は思っております。皆さん方も、大いなる勇気と希望をもって、ゆうゆうと、ともどもに進んでいっていただきたいのであります。今後とも、どうかよろしくお願いします(拍手)。

 「教学の年」の意義については、すでに活動方針、教学部長、北条理事長の話等に尽くされていますし、私もこれまで、あらゆる機会に申し上げてきましたとおりであります。

 

 基本は「勤行」「座談会」「教学」

 

 いうまでもなく、創価学会の根本路線は、どこまでも正法の「信行学」の実践に尽きるのであります。その「信」の対象は、日蓮大聖人即久遠元初の南無妙法蓮華経如来たる御本尊であります。

 「行」は、末法御本仏日蓮大聖人の仰せどおりの如説修行であります。

 「学」ぶのは、日蓮大聖人の経典・御書であります。ゆえに、勤行、座談会、教学の三つこそ、創価学会の絶対の柱なのであります。更に、創価学会の運動の基調は、この信行学を根本とした、個人における物心両面にわたる幸福の実証であるとともに、社会全体の平和と文化の推進であります。

 これこそが、日蓮大聖人の「立正安国」のご精神であり、それを身をもって実践し、万年の未来へ鏡として残されたのが、初代会長・牧口常三郎先生、第二代会長戸田城聖先生でありました。

 すなわち、創価学会は再三申し上げているごとく、仏法を基調とした平和・文化推進の団体なのであります。これ以外に仏法を社会に展開して昇華させていく道はありません。

 私もまた、この精神と路線を受け継ぎ、心血注いで実践してまいりましたが、創価学会員であるならば、永久に、この理念と実践の原点を見失ってはならないと、この席を借りて申し上げておきたいと思いますが、いかがでしょうか(拍手)。

 そこで、以上の創価学会の大綱の路線を根本として、この現実社会における展開の基本理念として、次の五点を明確にし、皆さま方の賛同を得られれば、不変の創価学会精神として定めておきたいのであります。

 それは、

 一、創価学会は、永遠に民衆の側に立つ。

 一、創価学会の実践は、人間革命の運動である。

 一、創価学会は、仏法中道の大道を歩む。

 一、創価学会の社会的意義は、平和を守り、人間文化の興隆にある。

 一、創価学会は、人間の精神の自由、なかんずく信教の自由を死守する。

 以上の五項目であります。

 それぞれの具体的問題については、これまでの総会でも、種々論じてまいりました。ある意味では、きょうの話は、これまで述べてきたことを総括する形になるとともに、それを根本精神としておきたいのであります。

 

 創価学会は、永遠に民衆の側に立つ

 

 まず、第一の永遠に民衆の側に立つという点について述べてみたい。

 「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(御書全集1174ページ)との「三種財宝御書」の有名な御金言のごとく、創価学会は、あくまで人間尊重の旗を掲げ、なかんずく庶民、一般民衆を守り大事にしていくのであります。

 日蓮大聖人ご自身、漁師の子として出生されたことを折にふれ述べられております。それは、ご自身が、民衆の側に立っていることを明らかにされたものであるとともに、この仏法の実践者は、永久に民衆の中に生き、民衆のために戦えとのご遺命と拝することが正しいと思うのであります。

 「佐渡御書」には「貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり」(同958ページ)と仰せられ「本尊問答抄」には「片海の海人が子なり」(同370ページ)と「善無畏三蔵抄」には「片海の石中の賎民が子なり」(同883ページ)等と述べられているのが、それであります。

 そして、更に、その実践も、生涯、苦悩に沈む民衆を救うことを第一義とされました。御書一つを例にとっても、その大半は在家の人々に対する指導のお手紙であります。その数は、断簡を除いても、実に四百数十編を数えるのであります。しかも、その一編一編は、皆さんご存じのように、一介の庶民の胸奥に迫り、その人が抱えた悩みを、その人以上の深い思いで悩み、解決への指針を与えておられるのであります。

 また、漢文が、知識階層の主流をなしていた当時にあって、仮名文字によってお手紙をしたためられた事実を通しても、大聖人の民衆の中にあっての実践が眼目であったことが、明らかであります。

 更に、大聖人出世のご本懐たる弘安2年10月12日の大御本尊の建立が、熱原法難を機縁とされたことに典型的にあらわれているといえましょう。

 周知のように、熱原法難は、日興上人を中心とする弟子の戦いによって起こった大難であり、それを受けた中心者は、弟子のなかでも、社会的には、なんの権力も財力もない無名の庶民、農民たちでありました。

 神四郎、弥五郎、弥六郎という農民信徒の殉教を大御本尊ご図顕の機縁とされたところに、私は深い意義があると思うのであります。

 それは、農民であれ、漁夫であれ、自ら汗して働き、生産にたずさわる庶民こそ、民衆救済の代表とされ、その不惜の信心を観ぜられ、一閻浮提総与の大御本尊をあらわされたという事実であります。

 この一事を通してみても、日蓮大聖人の庶民を最も大切にされたお心は、明白であり、それは、一閻浮提の一切民衆を救う根本の本門戒壇の大御本尊として、永久に確立されていると拝すべきであると思います。

 一般的にいって、信仰が死滅するときは、この「庶民を最も大切にする心」が失われたときであることは、すべての歴史が証明しております。現在の既成仏教は、僧侶が寺にあぐらをかいて葬式仏教になりさがっております。ここに庶民の宗教心がなくなっている原因があります。

 いかなる宗教においても、聖職者が、権威をかさに信者のうえに君臨する場合、民衆の信仰心は薄れ、その宗教は死滅するのであります。

 日蓮正宗創価学会が、大聖人の教えを実践・折伏することによって、庶民のなかに信仰心が盛んになったということは、事実が証明しているとおりであります。宗教者は、どこまでも人民の側に立つことが必要なのであります。仏教の教典のなかにも、民衆とともに生きた一人の仏法者の姿が、見事に描かれたものがあります。

 有名な「維摩経」という経典の主人公は、大乗菩薩の一人とされる維摩詰であり、彼は在家の長者とされております。

 この維摩詰が、あるとき、病気になったといううわさを耳にした釈尊が、さっそく十大弟子に見舞いに行くように促した。ところが舎利弗をはじめとして、十大弟子のすべてが辞退したというのです。

 舎利弗といえば、当時の宗教界にあって、その名声をほしいままにした秀才であり、釈尊の門下になってからも、知恵第一とうたわれた高弟であります。その舎利弗が辞退したのをみた釈尊は、驚いてその理由をただした。舎利弗の言によれば、自分は、かつて維摩詰と仏法の対話をして、厳しくやりこめられたというのであります。そのとき、自分は、自己のための修行にせいいっぱいであったのに、維摩詰は、民衆の救済に自在な活動を展開していたことに敬服し、恐れをなしてしまったと述懐したのであります。

 そこで、釈尊は、最後に、文殊菩薩に病気見舞いを託したというのであります。

 維摩詰の病気見舞いをした文殊は「是の疾何なる所に因りて起れるや」と質問した。あなたの病気の原因は、いったいどこにあるのですか、との問いであります。

 維摩詰は「衆生病むときは則ち菩薩も病み衆生病愈ゆれば菩薩もまた愈ゆ」と応答したというのであります。更に、維摩詰は「菩薩の病は大悲を以って起れるなり」といいきったという。

 私は、この言葉のなかに、民衆の苦悩を自ら引き受けて、一人の人間として戦う仏法者の姿をみることができると思うのであります。

 維摩詰は、衆生の病をいやすために、民衆のまっただなかに飛び込んでいった。

 苦悩の民衆があれば、どこにでも維摩詰は姿を現し、烈々たる気迫で法を説いたのであります。経典によれば、教育の場、庶民の座談の場、あらゆる職場、飲食店にまで入り込んで法を説いたと記されております。まことに、二千年の歴史を隔てても今日の私どもの胸にダイレクトに響いてくる物語であります。

 

 創価学会の実践は、人間革命の運動である

 

 第二に、創価学会の実践は、人間革命運動であることについて申し上げたい。

 創価学会の今日までの歴史を振り返り、未来の役割を思うにつけ、まさしくその最大の特色は「人間のための宗教」の旗を高く掲げてきた点にあるといえるのであります。

 多くの識者が言っているように宗教には大別して「権威のための宗教」と「人間のための宗教」の二つがあります。私もそのように思います。過去の宗教運動は、ともすれば神なりなんなりに絶対的な権威にまつりあげ、人間はその宗教的権威の従属下におかれがちでありました。すなわち「権威のための宗教」であり、人類史を暗く彩る幾多の宗教戦争なども、その本末転倒から発しているといっても過言ではありません。

 かのルソーは、名著「社会契約論」のなかで、こうした宗教戦争を非難しつつ「人間が神々のために戦う」ことの愚かさを指摘していますが、以来二百数十年を経た現在も、その本末転倒が正されたとは決していえないのであります。

 たしかに宗教そのものは、キリスト教に限らず、絶対的権威として人間に君臨していた昔日のおもかげは全くありません。しかし、それに代わって科学や国家権力や核兵器などが、神なき時代の神々として、いまだに人類を覆っている昨今であります。

 我々の主張する「人間のための宗教」とは、このような宗教、もしくは似非宗教的権威と人間との関係を逆転させ、あくまで人間こそ一切の主役なのであるという軌道へと、人類史を向けていく戦いなのであります。必ずやこの大運動を後世の歴史家たちは称賛するであろうことは間違いないと私は深く信じております。

 もし権威というのであれば、人間それ自体に内在する最も清らかで、最も力強い仏界という生命こそ、最高の権威でなければならない。その仏界を湧現させる戦いが、ほかならぬ人間革命運動なのであります。

 ゆえに、私どもの教学運動といっても、それは人間の生命変革のための運動でなければならない。人間革命のための教学、人間の生命変革のための教学、自身の境涯を開き、また民衆救済のための教学でなければならないと申し上げたいのであります。

 人間革命についての依文として、あまりに有名な一節でありますが、次の御金言を拝しておきたい。

 「譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」(同384ページ)

 信仰によって、自身をみがくことが即身成仏、すなわち現代語でいえば、人間革命なのであります。「一念無明の迷心」をみがき「法性真如の明鏡」とするとは、仏界の生命を顕現するということであります。

 では、仏界の生命をあらわすとはどういうことか。汝自身がどこまでも成長し向上しようとする強い自己主体の確立――つまり「上行」であり、あらゆる場合にあっても行き詰まることのない知恵と力を発揮していくこと――これを「無辺行」というのであります。更に、人生・社会のいかなる苦難にあい、どのような状況に陥っても、貪瞋癡等の汚れに染まることなく、すべてを楽しみきっていける人生、生命、これが「浄行」「安立行」であります。この四菩薩の生命に象徴される特質が、一身にそなわってくるのであります。

 法華経の涌出品では、この四菩薩を上首として、六万恒河沙の地涌の菩薩が、大地から陸続と出現する情景が説かれております。法華経には、文殊、弥勒、薬王、観音等々の大菩薩が、雲のごとく現れますが、上行、無辺行、浄行、安立行というように、すべて「行」という一字をもって誕生するのは、地涌の菩薩のみであります。

 これは「行」、すなわち実践こそが地涌の菩薩の生命であり、魂であると拝することができる。そして迹化の菩薩は、本化地涌の実践に耐えることができないということを、いみじくも表しているといえるのであります。ゆえに、もし大聖人の仏法者として実践を忘れてしまうならば、それはすでに迹化の菩薩であると、断ぜざるをえないのであります。

 この地涌の菩薩の偉大なる力は、実践を通じてのみ、生命の大地をたたき破って顕現されるものであり、我らが目指す「人間革命」も、この一点から演繹され、達成されていくわけであります。

 

 「師弟」の中に真の仏法修行

 

 この自己の境涯革命、そして、人間革命のために、重要になってくるのが「師弟」という問題であります。御本尊への唱題、広宣流布への実践によって、根本の生命変革をなしながら、人間としての一層の向上と練摩(磨?)のためには、人間対人間の現実的な関係性が不可欠となってくるのであります。

 それが、組織のなかにおける人間関係であり、また、職場や地域における人間関係であるとともに、特に大事なのは、師弟という関係であります。

 芸術や技能、学問の道においても、自己をみがき、向上を図るために、師弟関係はなくてはならないものであります。まして人間道ともいうべき仏法の修行において、師弟が重要であることは、いうまでもないところでありましょう。大聖人は次のようにいわれております。「設ひ父母・子をうみて眼耳有りとも物を教ゆる師なくば畜生の眼耳にてこそあらましか」(同1248ページ)

 これは、信仰を持続するうえにあたって極めて重要なことであります。動物にも親と子の関係はあります。親が子をかわいがり、子が親を慕う関係はあります。しかし、師と弟子の関係は、動物の世界にはありません。この師弟の関係というものは、人間のみにあるものであります。

 かつて戸田前会長が最もご尊敬申し上げていた堀米日淳上人は、このように御説法くださったのであります。

 「戸田先生は師弟の道に徹底されておられ、師匠と弟子ということの関係が、戸田先生の人生観の規範をなしており、このところを徹底されて、あの深い仏の道を獲得されたのである」

 また「創価学会は何がその信仰の基盤をなすかといいますと、この師匠と弟子という関係をはっきりと確認し、そこから信仰を掘り下げていく、これが一番肝心なことだと思う。今日の創価学会の強い信仰は、一切そこから出てくる。戸田先生が教えられたことは、これが要であろうと思っております。師を信じ、弟子を導く、この関係に徹すれば、仏法を得ることは間違いない」。

 さらに「戸田会長ほど初代牧口先生のことを考えられた方はない。親にもまして初代会長に従ってこられた」と語られ、最後に「この初代会長、二代会長を経て、皆さま方の信仰のあり方、また今後の進み方の一切ができ上がっている」と結論づけられておられました。

 ともあれ、少々長い引用になりましたが、日淳上人は師弟に徹するなかに信心はある、仏の道は得られる、そして初代、二代会長の師弟のなかに、創価学会の進み方の一切があることを明言されているのであります。

 まことに、師弟のなかにしか仏法はなく、成仏の道も、その一点に尽きるという一面を、お説きくださったのであります。

 私どもの生命の根源的練摩のための根本の師は大御本尊、そして御本仏日蓮大聖人であられます。三世にわたる永遠の師は、これ以外にありません。そのうえに立って、この現実社会に御本尊を教え、御書を身をもって教えてくださった初代会長・牧口先生、二代戸田先生は、私どもの人間革命の先駆者であり、広布弘教の師であることを、ゆめゆめ、忘れてはならないと申し上げておきたいのであります。

 

 創価学会は、仏法中道の大道を歩む

 

 第三に、創価学会は、永遠に仏法中道の大道を歩むということであります。

 ご存じのように、仏法では円融三諦の原理が説かれております。三諦とは、第一に空諦、すなわち万法の一切の性分のことであり、人間が話をしたり、花が咲いたりする、生きていくうえでの知恵の発露をさしている。第二に仮諦とは、五蘊仮和合といわれているように、人間なり、花なりの現実の姿であります。第三に中諦とは、空仮二つの側面にもかかわらず、それらの本源に厳然として存在する、不変の生命であります。円融三諦とは、これら三つの側面をあますところなく洞察する知恵をいうのであります。そして、これが、仏法中道ということなのであります。

 

 「円融の三諦」を現代に展開

 

 この空仮中の三諦を、現代的に読めば、私は、次のようにいうことができると思う。

 すなわち、空諦とは知恵の発露ですから、進歩であり活力であります。仮諦とは、仮和合の現実の姿ですから調和であります。実際、現実をながめてみれば、人間の体にしても、人間と自然の関係にしても、刻々と変化しながらも、なにひとつ調和を欠いて存在することはできません。第三に、中諦とは不変の生命ですから、根源・一切の成り立つ原点ということができます。

 ひるがえって現代社会の動向を見れば、進歩もしくは活力、調和、そして原点の三つのうち、どれ一つ欠けても、社会の健全たる発展はありえないといえます。例えば、原点なき調和は、なれあいの妥協となる。また、進歩なき調和は、停滞であります。更に、調和の視点を欠いた進歩、発展が、社会にさまざまな歪みや、アンバランスをもたらすことは、近代の物質文明の偏ぱが、なによりも雄弁に物語っているところであります。

 そして、社会のよりよき生々発展を支える原点、調和、進歩もしくは活力の三つを、ともに備え、円融にして円満なる大宇宙の本源の当体こそ真実の中道であり、即南無妙法蓮華経なのであります。御義口伝に「此の円融の三諦は何物ぞ所謂南無妙法蓮華経是れなり」(同717ページ)とあるとおりであります。このように円融三諦即南無妙法蓮華経という視点のごとく、一切の事象は無数の河川となって、妙法という一つの大海に注がれていくのであります。

 経文にいわく「無量義は一法より生ず」と。また、釈にいわく「百千枝葉同じく一根に趣くが如し」とあります。思想であれ、イデオロギーであれ、およそ、あらゆる人間の所作は、すべて根源の「一法」「一根」より生じたものであるとして、包括的にとらえ、静的に、動的に、それらを止揚しつつ、正しい位置を与えていくのが、仏法中道の大道であると申し上げたいのであります。

 近代文明をリードしてきたヨーロッパの思想の流れをあらあら俯瞰してみても、あるときは、プラトンのイデア論やキリスト教の霊魂不滅の流れをひく唯心論哲学が、隆盛をきわめておりました。19世紀中葉以降、それに代わるものとして、華々しく登場したのが、唯物論であることも、周知の事実であります。20世紀にあっても、第二次世界大戦後の一時、実存主義が、唯心論、唯物論に代わる“第三の哲学”として脚光を浴びたこともありました。それも束の間、現在では、実存主義から構造主義への移行ということがいわれはじめています。

 まことに変転常ならね様相でありますが、結論的にいえば、私は、それらの思想は、いずれも「無量義」の一分を説いたものにすぎないと思うのであります。もとより先人の労苦を認めないわけでは毛頭ありません。

 しかしながら、総じて現代文明そのものが、ぬきさしならぬ袋小路に入り込んでしまっている現実が示唆するものは、それらの哲学が、もはや現代において文明転換のテコになりえないという事実であると思うのであります。

 そこに「一法」の高みから「無量義」を止揚し「百千枝葉」を「一根」に位置づける仏法中道の哲理が、現代文明の前途に、深く蘇生の光を与えることのできるゆえんがあると申し上げておきたい。

 時代は、さまざま紆余曲折をたどりながらも、中道へ中道へと動いていくでありましょう。私どもはこの大道しか、人類の活路はないとの強い信念で、社会のなかに、民衆中道ともいうべき深い、広範な大河の流れをつくっていきたいと思いますが、皆さんいかがでしょうか(拍手)。

 

 創価学会の社会的意義は、平和を守り、人間文化の興隆にある

 

 次に第四点の「平和を守り、文化を興隆」することについて北条理事長の話等と重複いたしますので、簡単に申し上げたい。

 平和にせよ、真実の文化にせよ、生命が無上の宝であるとすることによって成り立つものであります。

 白米一俵御書に「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり」(同1596ページ)と仰せの通りであり、ゆえに、これを奪うこと、つまり殺生は最も重い罪をつくることになるのであります。

 御書には、次のように述べられております。「有情の第一の財は命にすぎず此れを奪う者は必ず三途に堕つ、然れば輪王は十善の始には不殺生・仏の小乗経の始には五戒・其の始には不殺生、(中略)法華経の寿量品は釈迦如来の不殺生戒の功徳に当って候品ぞかし、されば殺生をなす者は三世の諸仏にすてられ六欲天も是を守る事なし」(同1132ページ)と。

 この生命の尊さを真に感じ、因果の理法の厳しさを覚知するならば、殺生の大罪たる戦争を起こすことは、断じてできないはずであります。私ども仏法をたもつ者が、なさねばならない第一のことは、釈尊の不殺生戒の功徳に当たるといわれた寿量品の、さらに文底肝心の妙法をもって、殺生の大罪を犯す愚かさを見抜く英知と、これを食い止める清らかな生命力をすべての人々の心中にわきださせることであります。

 

 「権力闘争の世界に幸福はない」

 

 牧口初代会長は「創価学説の目的とするところは、個人にとっても社会にとっても、全人類の一人一人が無上最大の幸福を獲得するにある」と規定され、更に「世界の文化が、いくら発達しても。国と国とのもつ間柄が道徳を無視して、実力と権力闘争の世界では、決して人類の幸福はない」と喝破されているのであります。

 現代もまだ、国と国との関係は、人間らしい道義もなく、実力と権力闘争に明け暮れていることは、悲しい現実であります。これを、根底から変革して、人間的信頼と相互尊厳を基調とする恒久平和を実現し、全人類一人一人の無上最大の幸福を獲得することこそ、初代会長・牧口先生以来の創価学会の大理念なのであります。

 そして、人類一人一人の幸福を根本においた文化こそ、本当の文化であり、それが、また、私どもが貢献しようとする広宣流布という文化興隆の正しい在り方でもあります。

 第二代会長・戸田先生も、同じく、一言のもとに創価学会の使命をこう示されている。すなわち「何千年の平和の大計を立て、もって日蓮大聖人の御恩に報ずるとともに民衆万年の幸福を確立することが、創価学会の使命である」と。

 私もまた、平和と文化を私どもの使命として訴えもし、その具体的な提言を世に発表し、自ら命を削って戦ってまいりました。

 今後も「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」(同955ページ)とのご精神を胸にして、生涯この路線を進む決心でございますので、皆さん方もともどもにこの路線を更に完ぺきにし、進んでいっていただきたいことを、心からお願いいたします。

 

 創価学会は、人間の精神の自由、なかんずく信教の自由を死守する

 

 第五点の「人間の精神の自由、なかんずく信教の自由を守りきっていく」という点についても一言申し上げれば、開目抄にいわく「大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をご(期)せよ、父母の頸を刎ねん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我が義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし」(同232ページ)とございます。

 

 正義を貫く不屈の学会史

 

 信教の自由、精神の自由を守り抜いていくという仏法者としての決意と理念は、この御本仏日蓮大聖人の獅子吼に明確に示されていると拝することができるのであります。いかなる大難にも、いかなる脅迫にも、いかなる誘惑にも屈することはない。ただ、この仏法が最高の哲理であることを確信するがゆえに、断じてこの信仰を貫いていくのであります。

 この大聖人の、生涯にわたる血のにじむ実践からほとばしる叫びを我が命として、文字どおり身に読みきったのが、代々の会長であります。初代牧口会長は、獄中にその崇高な生涯を閉じられ、第二代戸田会長は、二年間の獄中生活「身は従えども心は従わず」と徹底して精神の不服従を叫ばれ、残る生涯を広宣流布に捧げられました。

 私もまた、妙法の実践護持のため、無数のいわれなき中傷・批判のあらしのなかを生き抜いてまいりました。

 ともあれ、いかなる権力による迫害にも屈せず、いかなる栄華の誘惑にも流されず、己の信ずる正義を貫き通す、この信教の自由、人間精神の自由を死守しゆくところに、究極の人間の尊厳を守り、確立する鍵があると申し上げておきたい。

 以上、創価学会の根本路線並びに、社会における展開の基調としての五項目を述べましたが、これを創価学会の永久不変の精神と定めておきたいと思いますが、皆さん、いかがでしょうか(採択の挙手)。

 

 歴史の審判を確信

 

 さて、現今の国際情勢を見るに、いよいよ混迷の度を深くしているようであります。しかし、20世紀の第三の四半世紀までをリードしてきた世界の指導者たちの時代を、我々がどう継承してゆくか、そして第四の四半世紀から21世紀への世界史の舞台を、どう切り開いていくかの、重要な契機を迎えたと考えられるのであります。かつてのいわゆる英雄といわれる人たちは、ことごとくいなくなりました。今、人々は暗夜に淡い光を仰ぎつつ、必死に21世紀への道標を模索しつづけているのが現状であります。

 しかしながら、カオスは、いつまでもカオスではありません。暗闇のなかに、遥かなる北極星を、そして更には、暁天の太陽を模索する人類の英知は、必ずや新たな活路を見いだしていくであろうことを私は信じたい。私どもの仏法運動が、そうした人類史の未来開拓に、なんらかの貢献をしていかなければならないということが、私の終生変わらぬ念願なのであります。

 また、七百余年の風雪に耐えて、今、ようやく世界宗教としての面貌を新たにしつつある日蓮大聖人の偉大なる哲理は、濁乱の世相に、明確なる蘇生の光を照射しうることを確信しながら、また来年も、着実に、我が道を進んでまいりたいと思うのであります。

 最後に、皆さま方のご健康と、ご一家のご隆盛をお祈り申し上げまして、私の話を終わらせていただきます(大拍手)。


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